歴史
新茶家の今昔
江刺地方の西端を流れる北上川は豊かな漁場としても 地域を支えて来ました。
文政 12 年(1829)の記録によると、高寺村(現愛宕地区)に 29 名の漁業者がおり、北上川に面した村落 では江戸時代を通じて川漁が盛んに行われていたことがうかがえます。魚種は鯉、鮒、鯰、鰻、川蟹など のほか、高級魚として鮭、鱒、鮎も水揚げされており、流域の市街地には北上川から得た新鮮な魚を提供する料理店がいくつもありました。
岩手県南部、奥州市北東部の旧町域である岩谷堂は、北上川中流域の左岸、北上山地の山麓口に位置し ています。平地と山地の文物の交流拠点、また、沿岸部と内陸部とを結ぶ宿町として発展した地域で、か つて 41 カ村を擁した旧江刺郡の経済的中心地でした。
本格的な市街地としての整備は 16 世紀頃。江刺氏が北上山地西端部の館山山頂を占地し、岩谷堂城を 構えたことに起因します。天正 19 年(1591)には伊達政宗の直轄領となり、のちに仙台藩北端の要地とし て、城下町が整備されます。安永頃には「仙台藩三大馬市」と称され良馬の取引も盛んに行われるようになりました。
そして江戸時代中期には、伝統工芸品として知られる 欅 材を使用した手打ち金具付きの岩谷堂箪笥が考案され、岩谷堂は商工業においてもその中核を担いました。
岩谷堂中町の料亭、新茶家の創業は江戸時代に遡ります。
料理店としては文化年間(1804~17)には既に営まれており、当時の店主、和賀榮七は「マル七」、子の 万五郎の代には「和万」という屋号を用いていたようです。現在もそれぞれの屋号が表記された食器類が 伝えられており、その血脈を辿ることができます。
新茶家の名を最初に号したのは明治期の店主、和賀新右衛門。
新右衛門は文久3年(1863)に生まれ、明治維新の激動を経て家業を受け継ぎました。当時の手帳から は、日本料理店の趣はそのままに、東京に出向いては西欧文化の象徴であったコーヒー豆を仕入れたり、 江刺で栽培が始まって間もないリンゴを食材に用いるなど、先見性に富んだ人物像が垣間見られます。
こうして新右衛門は、和食文化の伝統を守りながらも当風を意欲的に取り入れ、新時代における料亭 新茶家の 礎 を築いたのでした。
大正5年(1916)10 月、岩谷堂の青年らによって構成される団体、自然会の招請により、盛岡出身の政治家で当時、政友会総裁を務めていた原 敬が新茶家を訪れています。
原は新茶屋で昼食を取った後、小学校に出向いて公開演説を行い、夕方には再び座敷へ戻り歓迎会に 臨んでいます。その席でもまた、東北振興と憲政発展についての演説会となり、原は「何れも盛会なりき」 と手記に綴っています。この約 2 年後に原は首相に就任し、日本初の本格的な政党内閣を発足させ、の ちに「平民宰相」と呼ばれました。
店内には原が訪れた際の集合写真が飾られ、歓迎会に臨んだ大広間も健在です。
江戸時代の創業から現在に至るまで、時代ごとに変化をとげながら続けて来られました。
歴史を重んじながらも、お客様に感謝し、時代の流れを見据えながら新茶家という料亭の空間をこれからも伝えて参りたいと思います。
文責/野坂晃平